バッシングでは?

先日、千姫顕彰会のバス旅行で桑名に行った時に配られた一枚のプリント。

なんのプリントですか?
あるお寺の学芸員の方が作られた、千姫の一生について書かれた年表です。
そのプリントには千姫が大坂の陣の後、満徳寺(群馬県)には侍女を身代わりに行かせた、と明記してあります。
おぉ、またこの話か・・・と思いました。
千姫が自身で供養のために入寺したのか、代理を立てたのか、いくつかの解釈があって、こうだと言い切るのは難しい。
しかし私は身代わりに行かせたというのを読んで、「あぁ、だから千姫は自分で供養に行かなかったから、呪いを受けたんだな」と思いました。
呪いとは千姫の長男が亡くなり、流産を繰り返したことです。
でもさらに調べていくと、一緒にいたとされる刑部卿局は名前やその時何歳だったのかもよくわからないし、江戸城に居た記述もある、そして江戸時代は親子で同じ名前を使うこともあったことから、侍女でもある乳母の刑部ノ卿局が身代わりだったのかどうかは、はっきりわかりませんでした。
はっきりわからないのであれば、そう言い伝えられているとか、そうであろうとか考える余地を残して書いてくださればいいのに。
こんな風に言い切って、千姫が行かなかったと思わせるのは、遠回しなバッシングにならないでしょうか?
というのも、満徳寺に尋ねてみたところ、千姫の身の回りの品が残されていて、おそらくそれを侍女に使わせていたのだと言い伝えられていると言われました。
身の回りの品は、本人がここにいたという証拠に残した可能性はないのでしょうか。
大坂夏の陣という戦場を通り、助命歎願に向かった千姫。
精神的にも健康面でも深いダメージを受けておられたそうです。
体調不良をおして、満徳寺に少しでも行っていれば、千姫にとって侍女を行かせたと言われるのは、とんでもない誤解だと思われるでしょうし、
体調不良であれば、江戸城で静養されるのが一番です。
時代の波に翻弄され、自分の身の振り方をゆっくりと選択する余地などなく、
二回目のご結婚も早かったけど、忠刻様が亡くなってから江戸に帰るのも早かったですね。
何を考え、どんな風に行動したのか、現代でこんなにSNSが発達して、細かく発信しても誤解はなくならず。
大切なのは、もっと千姫の気持ちに寄り添って、解釈することではないでしょうか。
