連鶴
私の連鶴の先生との出会いは、室津のひな祭を開催中の、たつの市室津民俗館で個展をされていた時でした。
その時は初めて民俗館を訪れたので、展示資料のひとつかと思っていたのですが、こんなに小さく、ゴージャスに折れるんだな~と驚き、いくつか可愛い折り鶴をいただいて帰りました。
それから約一年後、改めて、サイクリングツアーの計画で、民俗館に立ち寄り、あの折り鶴が体験できたらどうかと思いつき、民俗館を訪れました。
折り鶴は定期開催ではないことを知り、がっかりしていたら民俗館の方が先生に連絡を取ってくださり、成り行きですが自分で教えられるようになるために習うことになりました。
連鶴は何羽になっても一枚の和紙から折られ、翼や尾、くちばしの部分で連なっています。
三重県桑名市の魯縞庵義道(1762年~1834年)が考案しました。
桑名といえば? そう、千姫が忠刻様と知り合うきっかけになった、七里の渡しがあるところなのですよね~!
魯縞庵義道はお寺のお坊さんだったのですが、そのお寺・長圓寺は七里の渡しの近くにあります。
このご縁にも驚きでしたが、千姫の千というお名前から千羽鶴という鶴を折ることを思いつきました。
それに江戸時代に千羽鶴といえばこの連鶴だったそうです。
江戸時代の連鶴は高度な技術が必要だったようですが、簡単に折れるように工夫して、現代に受け継いでいるのが京連鶴です。
”東山三段”
鶴は折れますが、連鶴はまだ始めたばかりで、こちらは”東山七段”を折るための練習です。
手柄山には平和資料館があり、展示では特に空爆の恐ろしさを伝えています。
姫路には二度の空襲がありましたが、1回目は普通の爆弾、二回目は焼夷弾が使われていました。
焼夷弾は主に建物を焼き払うための兵器でしたが、逃げ惑う人々の頭上に大量に降り注ぎ、子供を背負った母親や、頭部・首筋・背中に突き刺さり即死、そのまま燃え上がるという凄惨な状況が多数発生したそうです。
特に女性だけで逃げている家庭では、男性が居ない事を理由に防空壕にも入れてもらえず、あちこちを転々とした事が語り継がれ、さらに危険であったことがわかります。
そして大規模な空襲を受け瓦礫となった姫路の街に、ただひとつ、姫路城が焼けることなくいつも通り残っていたことは、神々しく、人々の心を勇気づけたそうです。
だから鉄道をつくって瓦礫を運び出し、経済の発展を見据えて駅から姫路城まで広い大手前通りを作り、被災したどの都市よりも早く復興することができたのですね。
千羽鶴は原爆被害者の少女、佐々木禎子さんが御自身の病気平癒の願いを込めて折り、亡くなられた後は原爆の犠牲になったすべての子供たちへの慰霊として折られるようになったことから、折り鶴は平和の象徴と「生きたい」と思う生存権利の主張と世界で知られるようになりました。
千羽鶴を思いついたものの、広島の原爆の子の像には毎年1000万羽の千羽鶴が送られてきて、焼却に1億円の公費がかかっているそうです。
折り鶴を通して平和を祈る方法は、他の方法を考えた方が良さそうです。